前回、日本独特の「学校の掃除」にフォーカスをあてた記事(『実は日本だけ。なぜ我が国の学生は毎日学校を掃除しているのか?』)が話題を呼んだ、無料メルマガ『「二十代で身につけたい!」教育観と仕事術』の著者で現役教師の松尾英明さん。今回は、世代を問わず最も避けられている「トイレ掃除」から学ぶ教育的意義について紹介しています。
掃除は感謝教育
掃除の場所で、最も避けられるのはどこか。いわずもがな、トイレである。ここは、一番汚れる。他とは違う汚れ方である。汚いものにわざわざ触りたくないし、関わりたくない。だから、最も避けられる。
ところで、トイレが汚れるのはなぜか。自分自身の抱える汚いものを、そこに受け止めてもらうからである。つまり、自分が汚しているのに、それを汚いと罵る。「きれいなもの好き」の人間は、自分が使うトイレが汚いのは許せない。私は「俺様」「御姫様」「御子様」「御客様」だからである。
こういう姿勢を「傲慢」と呼ぶ。自分を他人より高い位置に置く考え方である。自分が汚して他人様がきれいにしてくれていることへの感謝の念がない。いわゆる「金を払っているのだから、最高のサービスを受けるのは当然」という態度である。
「排泄」は、「食」の一環である。食べた後の食器の始末が汚い場合、トイレの使い方も汚い可能性が高い。一事が万事だからである。片付けてくださる方への思いやりとか配慮がないのである(だから、様々なことへ平気で文句も言える)。
だから、学校では直接指導できる「食」からアプローチする。残し方も指導する。残してしまう場合でも、まとめれば、片付けやすい(米は特にそうである)。
残しものでも食べた後の食器でも、自分から出る汚いものはすべて受け止めて流してもらいたいのである。本来は、自分できれいにすべきことである。自分のやったことは、後始末までつけるのが当然である。しかし、それを誰かや何かにやっていただくのだから、そこへの感謝の念はあって然るべき。
日本の古来からの考え方は、万物に神が宿るというものである。当然、「便所の神様」というのもある。万物に感謝する文化である。
要は、掃除も、感謝教育の一環である。掃除の教育的価値は、世界的にも見直されている。日本のもつ掃除の教育の価値を再考してみる時期である。
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