こと教育論に限っても、前川氏は安倍首相のアンチテーゼといえる存在だ。教育再生を謳い、「人づくり革命」と意味不明の新スローガンを繰り出した安倍首相は「国のために命を懸ける」人づくりを教育の眼目とする。
それに対し、前川氏は人それぞれの個性の違いを重視する。「いじめ」についても、道徳教育が足りないと安倍首相は考えるが、前川氏は違う。
この日のイベントで、参加者の一人が前川氏にこう質問した。
「前川さんは、いじめがひどいのであれば学校に行かなくていいと仰っていましたが、そう思ったきっかけは」
前川氏は自身の不登校体験を語りはじめた。親の仕事の都合で奈良から東京に転居した小学校三年生の時、東京の言葉や担任の先生になじめず、学校に行く直前になると吐き気や頭痛がして欠席した。
当時、奈良の学校にはプールがなく、泳げなかった。プールのある東京の学校の水泳の授業が怖かった。四年生になって、別の学校に転校し、担任の先生が優しかったこともあって、ようやく溶け込めたという。そういう児童期の体験が、前川氏の教育観をつくりあげたのかもしれない。
「学校の規則や、人間を規格にはめようとする教育には抵抗感をもっていました…そういう人間が文科省で事務次官をやってはいけないのかもしれませんが…」
子供を規格に押し込めない教育。その実例として、前川氏が紹介したのは、大阪市立大空小学校だ。同小学校元校長、木村泰子氏によると「スーツケースではなく、風呂敷のような学校」なのだそうである。
前川氏は言う。「スーツケースのような一つの型に入れようとすると息苦しくなって逃げたくなる。大空小学校はどんな問題を抱えている子でもすべて受け入れて個別に対応する。どんな形の子供でもそれぞれの個性を生かしながらやわらかく一つに包みこんで共同体をつくっていく。そのとき、守るべきルールはたったひとつ。自分がされて嫌なことは他人にしない。それだけは守りなさい、と」
おそらく前川氏は、政府、文科省が進めている現実の教育とのギャップに悩みながらも、大空小学校のような教育が実際に行なわれていることに救いを見出していたのであろう。事務次官になっても役人は前例踏襲であるし、組織の論理から逃れることは難しい。そこに、安倍官邸のような締めつけが加わると、それこそ息苦しい。
「学校という仕組みからマインドが離れられないんです。親がなくとも、学校がなくとも、子供が学校以外の場所で学ぶのはいくらでも可能です」
学校に行かなければ不良だとでもいうような風潮を前川氏は戒める。加計問題での勇気ある発言と併せ、日本の官僚もまんざら捨てたものではないと思わせてくれる。
こういう視点を持つ人なら、現役の官僚だったころでも、国の最高権力者が古い道徳や国家意識を押しつけるかのような姿を見たとき、どう感じるかは自明のことだ。