日台関係は揺るがず。台湾の日本人像を破壊した犯人とその後ろ盾

 

ここで少し八田與一についておさらいしておきましょう。日本統治時代の台湾に土木技師として台湾に渡り、各都市の上下水道の整備に従事した後、発電と灌漑事業に従事しました。

八田の台湾での功績は数えきれないほどありますが、何より台湾に貢献したのは嘉南平野に造ったダムです。正式名称を「烏山頭ダム」といい、八田はその設計・監督を務めました。嘉南平野はもともと洪水、干ばつ、塩害にあえぐ地域で不毛地帯でした。そこへダムを造ることで、穀倉地帯へと変貌させたのです。

烏山頭ダムの満水貯水量は1億5,000万トンで、これは黒部ダムの75%に相当します。さらに、八田はダムを造るだけでなく、「三年輪作法という農作方法を採用しました。これは、1年目には稲を栽培し、2年目にはあまり水を必要としないサトウキビ、そして3年目には水をまったく必要としない雑穀類の栽培をするという輪作農法です。

これにより15万haの耕地を灌漑することができ、米栽培、そして砂糖栽培が飛躍的に成長し、台湾南部は大穀倉地帯となりました。水田は30倍に増加し、ダム完成から7年後の1937年には生産額は工事前の11倍に達し、サトウキビ類は4倍。ダムの規模は東洋一でした。

その業績は国民中学の『社会2・農業の発展』に詳しく記載されており、最後まで貿易が赤字だった朝鮮とは異なり、台湾が早くから黒字に転じたのは農産物のお陰であると言い切っています。

台湾経済を変えた日本人 ‐ 八田與一(はった よいち)の偉大なる功績

また、八田は台湾の現地人を差別することなく現地人従業員をとても大切にしたと台湾で伝わっています。台湾人からも慕われていた八田ですから、ダムの完成時には銅像建立話が持ち上がりました。しかし、八田はこれを固辞しつづけました。

そこで、八田の思いを忖度した地元民や周辺の者たちが偉そうな立像ではなくダムを見下ろしながら思案にふける八田の姿の銅像をつくったと言われています。

八田與一は1942年5月、フィリピンの綿作灌漑調査のために広島の宇品港から大洋丸に乗船して出航したものの、途中でアメリカ海軍の潜水艦により撃沈され八田も死亡したのです。そして八田の外代樹は、1945年9月、八田の後を追うように烏山頭ダムの放水口に身を投げました

八田の台湾への貢献および、台湾人に分け隔てなく接した態度は、台湾の人々からも非常に尊敬されています。蒋介石時代には、大日本帝国の建築物や顕彰碑が次々と壊されましたが、八田與一の銅像は地元の人々の協力で隠され続け守られてきたのです。そして、1981年に、八田ダムがよく見渡せる場所に、八田與一の墓とともに設置されたのです。

そのような、台湾人にとっても思い入れのある八田與一像の首が、中台統一を主張する統一促進党の幹部によって切断されてしまったわけです。ちなみに、統一促進党は、中国で沖縄の中国領有を主張する中華民族琉球特別自治区準備委員会」という組織ともつながりが囁かれています。もちろんこれは中国政府の息がかかっています。台湾独立阻止と沖縄独立を目論む中国とつながりのある統一促進党が、日台の絆の象徴である八田與一の像を破壊したということは、ある意味で、わかりやすい構図です。

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