以前掲載の記事「インドの自動車、2台に1台が日本車の「マルチ・スズキ」になっていた」では、インド国内の自動車メーカーシェアの約半分が「スズキ」であるという衝撃の事実をお伝えしました。なぜインドという遠く離れた異国の地で、ここまでスズキの車が愛されているのでしょうか。無料メルマガ『Japan on the Globe-国際派日本人養成講座』で、その理由が明かされています。
世界を駆ける「中小企業のおやじ」~スズキ会長・鈴木修
鈴木修がスズキに入社したのは、昭和33(1958)年だった。大学卒業後、別の企業に勤めていたのだが、2代目社長の鈴木俊三の娘婿となるのと同時に、スズキに入社したのである。28歳だった。鈴木は入社した時の印象を、こう語っている。
オートバイの生産工場に行って大変なショックを受けました。工場といっても木造の平屋、いや、そんな立派なものではなく、むしろ掘っ立て小屋といったほうが正確でしょうか。…
組み立てラインも、ベルトコンベアーではありません。工場では、オートバイを載せた手押しの台車を組長の笛の合図で従業員が押していました。「手動コンベヤー」で動いていたのです。
(『俺は、中小企業のおやじ』鈴木修 著/日本経済新聞社)
当時は、日本全国に30社以上のオートバイメーカーがあり、その多くが浜松に集中していた。地元の浜松工業学校(現・静岡大学工学部)の卒業生が、戦争からの復員後、ホンダに続けとばかり、次々に会社設立をしていたのである。スズキもその一つだった。
ホンダの本田宗一郎もやはり作業服を着て、どう見ても町工場のおやじさんとしか見えないのに、「今にウチは世界一の二輪車メーカーになる」と事もなげに言っていた頃である。日本の自動車業界の夢多き少年時代であった。
「あると便利な」アルト
社長の娘婿だからといって、鈴木修は甘やかされたりはしなかった。逆に30歳の若さで新工場を建設するプロジェクトを任されたりして、苦労が続いた。しかし、同年配の同僚たちと力を合わせて、難関を乗り切っていった。
昭和53(1978)年、社長に就任。低価格の軽自動車は、日本が貧しかった60年代には大きく伸びたが、高度成長が進むにつれて、本格的な乗用車が求められ、軽のシェアは新車市場の13%程度まで落ち込んでいた。軽自動車の市場がこのまま無くなってしまったら、スズキの商売の大半が消失してしまう。
「本当に軽自動車の時代は終わってしまったのか」と考え続けていたある日、かなり多くの人が「荷台のついた軽トラック」で通勤しているのに気がついた。「おい、なんでトラックなんかで通勤しているんだ」と聞くと、「そんなこと言ったって修さん、乗用車に乗れるような給料をくれんじゃないか」と答える。このあたりは、まさに中小企業の社長と従業員のやりとりそのままである。
よくよく聞いてみると、社員の多くは休日に畑で野菜を作り、出荷する時に軽トラックを使う、という。また奥さんが店をやっていて、仕入れを手伝うのに軽トラックが便利、との由。
高度成長の頃には、乗用車があこがれの的で、商用車やトラックなどかっこ悪い、と思われていたのだが、この頃には、気軽に実用的なクルマを求めるニーズが広がっていたのである。
そこで、ちょうど乗用車として開発されていたアルトを、後部に荷物を置くスペースをひろくとって「商用車」として売り出すことにした。当初の企画では、「アルト」という名は、「秀でた」という意味のイタリア語からとっていたが、鈴木は発表会で「あるときはレジャーに、あるときは通勤に、またあるときは買い物に使える、あると便利なクルマ。それがアルトです」とやって、会場を沸かせた。
当時、軽自動車といっても60万円以上だったのが、47万円とし、それで利益がでるよう、徹底的にコストダウンをした。乗用車にかかる物品税15~30%が商用車ならゼロになるのも効いた。47万円という価格は発表会で大歓声を呼んだ。
アルトは大ヒットし、消えゆく運命にあると思われていた「軽自動車市場」を蘇らせた。