日本人にとって、決して馴染み深い国とは言えないポーランド。しかし、先日掲載し多くの反響をいただいた記事「多くのポーランド人が日本に救われた。知られざる1920年の感動秘話」でもお伝えしたように、両国間には人道を通じた絆が存在しています。今回の無料メルマガ『Japan on the Globe-国際派日本人養成講座』では、さらに両国をつなぐ知られざる深い善意と友好の歴史を振り返っています。
日本・ポーランド友好小史
冬の最中にポーランドの古都クラクフに来ている。ホテルの窓から見ると、うっすらと雪化粧した街並みを見おろすように歴代ポーランド王の居城だったヴァヴェル城がそびえている。
ポーランドは日本からはなじみの薄い国で、一般の人はせいぜいショパンやキューリー夫人くらいしか知らないだろう。しかし両国の間には善意と友好の歴史が100年もの間、人知らぬ地下水脈のように流れている。
弊誌142号「多くのポーランド人が日本に救われた。知られざる1920年の感動秘話」では、20世紀初頭にシベリアで困窮していたポーランド人孤児765名を帝国陸軍と日本赤十字社が救出し、母国ポーランドに送り届けた事。その返礼として、75年後に阪神大震災の孤児たちがポーランドに招かれて歓待を受けた佳話を紹介した。
しかし、両国の交流はそれ以外にも脈々と続けられている。今回は両国をつなぐ深い善意と友好の歴史を辿ってみよう。
「日本とポーランドが手を携えてロシアと闘おう」
ポーランドは18世紀末にロシア、プロイセン、オーストリアに分割され、独立を失った。その後、粘り強く独立運動が続けられたが、彼らに勇気を与えたのが日露戦争だった。
後にポーランド独立の英雄として敬愛されるヨゼフ・ピウスツキは1904(明治37)年7月、日露戦争の最中に日本を訪れ、明治政府に対して日本とポーランドが手を携えてロシアと闘おうと呼びかた。ポーランドがシベリア鉄道の破壊やロシア軍に徴発されているポーランド兵の脱走・投降工作をする代わりに、日本は独立運動への支援を行う、という具体的な提案だった。
この時にもう一人の独立運動の指導者で穏健派のドモスキも来日して、ピウスツキの提案は非現実的だと日本政府に進言した。結局、日本政府はピウスツキの提案のうち、最後のポーランド人捕虜に対する好意的な取り扱いだけを採用することにして、松山にポーランド人捕虜のための収容所を作り、特別に厚遇した。捕虜の正確な数は判っていないが、一説には数千人の規模に達したという。日本海海戦で日本がバルチック艦隊を破った時には、ポーランド人捕虜全員が万歳を叫んだ。
「日本人に出会ったら恩返しをして欲しい」
後にポーランド大使となる兵藤長雄氏は外務省入省の後、1961年に英国の陸軍学校に留学してロシア語を学んだが、その時の先生がグラドコフスキという元ポーランド陸軍将校であった。グラドコフスキ先生はどういうわけか、兵藤氏を何度も自宅に呼んでご馳走したり、特別に勉強を助けてくれた。
なぜこんなに自分にだけ親切にしてくれるのだろうと不思議に思って聞いてみると、先生は父親の話を始めた。父親はロシアに徴集されて日露戦争に従軍したが、捕虜となって数ヶ月を日本で過ごしたのだった。そこで周囲の見知らぬ日本人から親切にもてなされ、深い感銘を受けた。
父親は日本人の温かい心と数々の善意が終生忘れられずに、息子にその時の話を詳しく聞かせては「お前も日本人に出会ったらできるだけ親切にして恩返しをして欲しい」と口癖のように話していたという。「父親が受けた日本人からの親切を、今、貴君を通じてお返しできることは本当に嬉しい」と先生は兵藤氏に語った由である。