聖徳太子が中国の皇帝に「日没する処の天子」としたためた理由

Prince_Shotoku20170203
 

最近の歴史の教科書には「厩戸皇子」と記述されている聖徳太子ですが、歴史の授業で「聖徳太子が中国の皇帝に出した手紙に『日没する処の天子(=中国)』と書いたことで皇帝が激怒した」と習ったことをご記憶の方も多いかと思います。しかし、今回の無料メルマガ『Japan on the Globe-国際派日本人養成講座』で紹介されている小学校教諭・齋藤武夫先生によれば、皇帝が激怒した原因はこのフレーズではないとのこと。では一体なぜ? メルマガ記事では、受け持ちの児童たちにその理由を考えさせる齋藤先生のユニークな授業風景が描かれています。

聖徳太子の大戦略

日出る処の天子、書を、日没する処の天子に致す。恙なきや。

齋藤先生は授業の冒頭でいきなり黒板にこう書いて言った。「さあ、読んで下さい。読めないところはホニャラと読みましょう」。小学校6年生の子供たちを先生は列ごとに指名して、順番に読ませていく。

「ひのでるショのテンシ、ショを、ニチボツするショのテンシにいたす。ホニャラなきや」

わけのわからなさに笑いが起こる。初夏の風が通う教室は和やかな気分につつまれた。『学校で学びたい歴史で紹介されている齋藤武夫先生の授業風景である。

「大変よく読めました。ほとんど正解と言っていいでしょう。それではふつうの読み方を教えましょう。」と言って先生は、こう読み上げた。

「ひいづるところのテンシ、ショを、ひぼっするところのテンシにいたす、つつがなきや」

先生について、子供たちに後を続かせる。その後、子供たちだけで声をそろえて二度ほど読ませる。皆で一斉に読むので斉読」と呼んでいる。

誰が誰に出した手紙でしょう?

「これは、歴史上たいへん有名な手紙の書き出しです。ある意味で日本の歴史の中で最も重要な手紙だと言えるかも知れません。誰が誰に出した手紙でしょう?」

先生の問いかけに、一人の生徒が答えた。「聖徳太子からツツガナキヤさんに出した。」

「すばらしい。聖徳太子は半分正解です。ですが、ツツガナキヤは人の名前ではありません。この手紙は、当時の女性天皇だった推古天皇の摂政、今で言えば総理大臣だった聖徳太子が書いて推古天皇の名でどこかの国のトップに出したものです。国書と言って、国から国へ出した手紙です。どこの国に出したのでしょう」

「中国だと思います」とすかさず、別の生徒が答える。

「大正解。この国書は推古天皇から中国の皇帝にあてた手紙です。出されたのは西暦607年、この国書を出すまでの100年ほどの間、日本は中国との直接のつきあいはありませんでした。中国はいくつかの国に分裂して争っていたからです。

ところが、ちょうど聖徳太子の頃、隋という大帝国が中国を統一します。聖徳太子は中国から進んだ文化を学ぼうとして、遣隋使という使いを中国に送りました。その代表が小野妹子です。『妹子』ですが、この人は男性ですよ。この国書は、小野妹子が隋の皇帝に渡したものです」

ここで齋藤先生は、もう一度、手紙の文章を皆で斉読させた。漢文の歯切れの良いリズムが子供たちの体に心地よく響いてくる。それは聖徳太子の強い意志を伝えるかのようだ。

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