故ジョン・F・ケネディ大統領は来日した際、「日本で最も尊敬する政治家は誰か?」との質問に、上杉鷹山(ようざん)の名前を挙げました。しかしこの上杉鷹山という人名、聞き覚えがない方も多いのではないでしょうか。無料メルマガ『Japan on the Globe-国際派日本人養成講座』では、深刻な財政難に陥っていた米沢藩を、見事な知恵と慈愛の心で救った江戸時代屈指の名君・鷹山公の仕事を紹介しています。
上杉鷹山 ~ケネディ大統領が尊敬した政治家~
1961年、第35代米国大統領に就任したジョン・F・ケネディは、日本人記者団からこんな質問を受けた。「あなたが、日本で最も尊敬する政治家はだれですか」
ケネディはこう答えた。「上杉鷹山(ようざん)です」
(『上杉鷹山に学ぶ』p3)
おそらく日本人記者団の中で上杉鷹山の名を知っている人はいなかっただろう。鷹山公は江戸時代に米沢藩の藩政建て直しに成功した名政治家で、財政危機に瀕する現代日本にとっても、学ぶべき所が多い。戦前は、小学校の修身教科書にも登場し、青少年に敬愛されてきた人物である。
上杉鷹山とは、どのような人物なのだろうか。そしてなぜケネディは鷹山を尊敬していたのだろうか。
破綻していた藩財政
上杉鷹山は宝暦元(1751)年、日向(宮崎県)高鍋藩主の二男として生まれ、数え年10歳にして米沢藩主上杉重定の養子となった。
上杉家は関が原の合戦で石田三成に味方したため、徳川家康により会津120万石から米沢30万石に減封された。さらに3代藩主が跡継ぎを定める前に急死したため、かろうじて家名断絶はまぬがれたものの、さらに半分の15万石に減らされてしまった。
収入は8分の1になったのに、120万石当時の格式を踏襲して、家臣団も出費も削減しなかったので、藩の財政はたちまち傾いた。年間6万両ほどの支出に対し、実際の収入はその半分ほどしかなく、不足分は借金でまかなったため、その総額は11万両と2年分近くに達していた。ちょうど、現代の日本のような深刻な財政破綻におちいっていた。
収入を増やそうと重税を課したので、逃亡する領民も多く、かつての13万人が、重定の代には10万人程度に減少していた。武士達も困窮のあまり「借りたるものを返さず、買いたる物も価を償わず、廉恥を欠き信義を失い」という状態に陥っていた(『上杉鷹山に学ぶ』p26、『漆の実のみのる国』上 p46)。
民の父母
受次ぎて国の司の身となれば忘るまじきは民の父母
鷹山が17歳で第9代米沢藩主となったときの決意を込めた歌である。藩主としての自分の仕事は、父母が子を養うごとく、人民のために尽くすことであるという鷹山の自覚は、徹底したものであった。後に35歳で重定の子治広に家督を譲った時に、次の3カ条を贈った。これは「伝国の辞」と呼ばれ、上杉家代々の家訓となる。
- 国家は、先祖より子孫へ伝え候国家にして、我私すべきものにはこれなく候
- 人民は国家に属したる人民にして、我私すべきものにはこれなく候
- 国家人民の為に立たる君にて、君の為に立たる国家人民にはこれなく候
藩主とは、国家(=藩)と人民を私有するものではなく、「民の父母」としてつくす使命がある、と鷹山は考えていた。しかし、それは決して民を甘やかすことではない。鷹山は「民の父母」としての根本方針を次の「三助」とした。すなわち、
- 自ら助ける、すなわち「自助」
- 近隣社会が互いに助け合う、「互助」
- 藩政府が手を伸ばす、「扶助」