強烈な順法精神
法治を徹底するためには、行政当局自らも法規を守らねばならない。花蓮のある日本人警察官は、妻が農民から紅露酒2本15銭相当を贈られたために免職になり、当時大きな話題となった。警察の月給が60円だったころである。
台湾大学医学院長をつとめた魏火曜によれば、地位利用を意味する「揩油(カイヨウ、うまい汁を吸う)」などという言葉は、日本統治時代には耳にしなかったという。
総督府の強烈な順法精神に加え、街の要所要所には警察局や派出所が作られ、そこから毎日警官がパトロールした。日本の警察は、台湾人の習慣を強制的に変え始め、左側通行の規則を作り、痰を吐いたり、手ばなをかむことを禁止した。当時を知る台湾人は「俺のためにこそ泥を捕まえてくれるが、俺が何かやらかせば遠慮会釈しなかった」などと語っている(『台湾の歴史』p308)。
しかし厳しい警官だけではなかった。台南州で勤務していた森川清十郎巡査は、村民の税金軽減のために当局と争い、抗議の自決をした。村民は巡査を徳として「義愛公」と呼び富安宮に祀った。今でも「日本人の神様」としてお参りする人が絶えないという(『台湾と日本・交流秘話』p146)。
このような厳しい法治のもとで、台湾は武闘の頻発する無法地域から、治安良好な法治社会への変わっていった。夜眠る時や外出のさいも、家に鍵をかけなくとも泥棒を心配する必要はなかった、と現在でもよく言われる(『台湾の歴史』p306)。
「公」と「私」
司馬遼太郎は言う。
身もふたもなくいえば、歴朝の中国皇帝は私で、公であったことがない。その股肱(てあし)の官僚もまた私で、たとえば地方官の場合、ふんだんに賄賂をとることは自然な私の営みだった。このため近代が起こりにくかった。
台湾にやってきた蒋介石の権力も、当然私であった。一方、勝者になった毛沢東の権力も、多分に私だった。毛沢東の権力が私でなければ、プロレタリア文化大革命などという私的ヒステリーを展開できるわけはないのである。
歴朝の私が人民にとって餓えた虎であり続けた以上、ひとびとはしたたかに私として自衛せざるをえなかったのである。
(『台湾紀行』p43])
李登輝元総統の願いは「夜、安心して眠れる国にしたい」ということであった。その願いの背後には、「夜にろくろく寝たことがなかった」という蒋介石時代と、「夜寝るときも鍵をかける必要がなかった」という日本統治時代の二つの体験が潜んでいる(『台湾紀行』p376)。
民衆が夜安心して眠れるよう、「公」のためにつくす政治家や官僚、警官、軍人がいて、初めて近代国家は成り立つのである。