一日のほぼすべての時間を仕事で埋め尽くされ、プライベートなど皆無に等しい現代のサラリーマンは、しばしば「社畜」と表現されることがあります。しかし、メルマガ『異種会議:戦争からバグパイプ~ギャルまで』によると、古代ギリシャの時代から人間の99%は支配されることを望んでいるのだとか。同メルマガ著者の加藤健二郎さんが解説する「奴隷と主人の関係」は、そのまま現代の社畜サラリーマンと経営者に当てはまると思いませんか?
生物間奴隷哲学
人間が人間を奴隷とすることは、現代社会では、悪いこととされているが、その奴隷禁止の歴史は人類史の中でまだ短いし、現在でも、先進国といわれる国においても、その類似形は残っている。そして、人間が、人間以外の生物を奴隷にすることは、現代でもオーケーということになっている。なぜ、人間以外の生物を奴隷にするのはオーケーなのだろうか。
それは、人間以外の生物は、人間に通じる言葉で抵抗してこないからだろう。だから、抵抗してこない生物だけが奴隷にされている。
今回は、ギリシャ繁栄時代に、そんな哲学論争が多かったんだよ、ということを知る人たちとのワイワイ雑談会。カトケンにとって、哲学なんちゅーものは、そのカテゴリーさえもわからない異物なんだが、まあ、出会いということで。
白人さんたちの動物に対する考えでは、クジラやイルカのような頭の良い動物を奴隷にしたり食べたりするのはけしからんが、抵抗能力のないバカな動物なんかどーでもいいんだ、という基準がある。
だが、もしかすると、その発想の逆も正論である。どういうことかというと、抵抗してくる能力のある生物を戦闘でやっつけても対等な戦いだからいいけど、抵抗力のない弱者を奴隷にしたり殺したりするのは悪いことなのではないか、と。
例えば、頭脳的にも肉体的にも抵抗力のない生物というと、人間の中だけでみても、赤ちゃんや子供、障害者などがある。彼ら抵抗する能力のない弱者を弾圧したり奴隷にすることはオーケーだという論理は、さすがに今の先進国では通らないだろう。でも、抵抗しないロバに強制重労働させることはオーケーだ。
ここで、人類と、それ以外の動物という線引きに疑問を持つ哲学者たちは、ギリシャ時代からいたそうだ。それは、人類の中にも、ロバのように奴隷向きの人間もいれば、奴隷に向いてない人間もいる。そして、人間以外の生物の中にも、ロバのように奴隷向きの生物もあれば、ネコのように奴隷に向いてない生き物もいる。
そう考えた場合、「人間やライオンのような抵抗力を持つ生物」を制圧して支配する方が、無抵抗なロバを支配するよりも、正々堂々たる戦いの上での支配だから、フェアなのではないだろうか。戦争でも、武装した軍人同士の戦いより、非武装の庶民が殺される方が問題視されるように、抵抗能力のない生物を弾圧し支配し奴隷にすることの方がモラル上、問題が大きいことになっている。動物愛護運動さんはその発想だよね。