「とにかく福島のために何かしたい」
千葉さんの父親は福島市役所の公務員だったので、16歳の頃まで福島市で育った。当時の友だちや先生の中には原発から20キロ圏内に入る南相馬市に住んでいる人たちもいた。原発建て屋の水素爆発の映像をテレビで見て、ショックを受けた。
そんな中、経産省前に集まる人々の姿をネットで見たのです。当時はまだ運動全体が組織化されていなくて、首都圏反原発連合もありませんでした。それぞれがそれぞれの立場で集まっているという感じでした。
であれば一度どんなものか行ってみよう、行動というほどのことではないのですがとにかく街に出てみて、どんなことをしているのか見てみようと思って現場に足を運んだのです。…
その時に集まっていた人は、共産党とか左翼という感じはしませんでした。本当に福島の原発事故に驚いて来ている人も多かったと思います。…
次第に共産党や中核派などの極左系らしき組合や団体の幟を見かけるようになり、議員もやってくるようになりました。…でも誰が来ようと関係ない、私はただ、とにかく福島のために何かしたい、何かしなければという思いだけでとった行動だったのです。
初めて街頭に立ったのは震災のあった平成23年の夏だったと記憶しています。その頃から運動も大きくなっていき、平成23年9月には首都圏反原発連合が立ち上げられました。抗議活動に行くと、首都圏反原発連合の中心メンバー達からも「シュプレヒコールをあげてほしい」とお願いされたのです。…
そんな形でマイクを握っ私ですが、あくまで福島を守りたいという一心での参加であり、活動そのものに参加しようということではなかったので、首都圏反原発連合のコア(中心)メンバーによる会議などには出ませんでした。もちろん報酬や交通費なども一切もらっていません。
こうして、千葉さんは反原発運動の最前線に立ったのだった。
「まるでサークルの思い出作りのような」
しかし、原発事故が峠を越えると、参加者は急速に減っていった。一般参加者が減るにつれて、共産党関係者、それも高齢者の占める割合が増えていった。彼らは表に出ない安全な場所にいて、身元のばれない若手を前面に立てた。
デモ参加者が機動隊に突っ込もうとすると、マイクで「この運動が終わりになってしまいます。皆さん時間にもうなったのでお帰りください」なとどいう。燃えたぎっていた参加者は、拍子抜けになった。
また、リーダーたちは首相官邸に入っていっても、当時の野田総理に厳しい要求をつきつけるでもない。一緒に写真を撮って、「首相官邸で総理と面談!」みたいに嬉しそうに発信する。千葉さんは毎回真剣にマイクを持って、シュプレヒコールを担当していただけに、リーダーたちの、まるでサークルの思い出作りのような行動に不信を感じた。
共産党が幅を効かせるようになって、デモに音楽や踊りを取り入れるようになった。学生運動の華やかりし頃、日本共産党傘下の日本民主青年同盟(民青)は、「歌って踊って日共民青」などと揶揄されたように、大学のサークルのように勧誘をしていたので、その一つ覚えだろう。