かつて日清戦争で勝利をおさめた日本は台湾を50年もの間統治していましたが、日台間には現在まで大きないさかいもなく友好関係を築いています。それは、以前「台湾で最も尊敬される日本人。命がけで東洋一のダムを作った男がいた」という記事でもご紹介した八田與一をはじめとする、統治時代に台湾のために尽くした日本人たちの努力の証であると言えるかもしれません。無料メルマガ『Japan on the Globe-国際派日本人養成講座』では、そんな先人たちの姿が詳しく紹介されています。
台湾につくした日本人列伝
1999年の台湾大地震では、日本がかなり目立った働きをした。地震発生当日の夜には、日本からの緊急援助隊が一番乗りし、「空港で1秒間も休まずに災害現場に駆けつけた」(地元マスコミ)。規模も合計125人と最大、機材も最新鋭、訓練、規律も最高とあって、地元マスコミに高く評価された。
ファイバースコープや生存者の呼吸を電磁波で探知する「シリウス」と呼ばれるハイテク機器、赤外線探知機、さらに大型の切断器具などの最新鋭装備だけでなく、発見された遺体に敬礼を捧げたり、「(救助できずに)申し訳ありませんでした」と遺族に語る救助隊員の姿勢が、好感を持って報道されている。
日本時代に育った高齢者「多桑(とうさん)」世代を中心に、「よくやってくださいました。ありがとう。」と涙を浮かべながら、丁寧な日本語でねぎらいの言葉を寄せたり、食事を提供してくれる人も多い。被災地の、それも最も被害の甚大な場所にいながら、食事や水に困ったことがないという。
「多桑」世代の親日感情
「多桑」とは、台湾語読みで「トーサン」、日本統治時代の「父さん」の名残である。94年に作られた映画「多桑」は、「金馬奨(台湾のアカデミー賞)」の観客投票最優秀作品賞を受けた。
映画の主人公セガは、日本教育を受けた世代で、戦後も何かにつけ、日本びいきだ。子供たちには「トーサン」と呼ばせ、家では日本のラジオ放送を聞き、ラジオの具体が悪くなると、日本製じゃないとだめだ、とぼやく。セガの夢は日本に行って、皇居と富士山を見ることだった。しかし、その夢を果たす前に、この世を去る。
始めは「奸漢(売国奴)」と非難していた長男も、成人して父親の心情を理解する。この長男が監督として、実体験に基づいて作った映画が「多桑」である。「多桑」世代の人々は、この作品を見て涙を流し、若い世代も関心を向けた。
しかし、「多桑」世代の人々は、なぜそんなに親日的なのだろうか。それは、今回の日本の救助隊と同様、いやそれよりもはるかに大きなスケールで、台湾のために尽くした多くの日本人がいたからである。今回は、それらの人々の一部を列伝風に紹介してみたい。