今からさかのぼることおよそ30年前の日本。つまり1986年から1990年において起きた出来事を思い出して頂きたい(と言っても、読者の中にはまだ生まれてなかったという方もお見えかも知れません)。
「そんな昔の話を思い出しても仕方がないではないか」と言われそうですが、今や誰もが語らなくなった時代を思い起こしてみて、その時代から30年を経た現代の日本経済、日本の株式市場の困窮の遠因を紐解いてみてはどうだろうか。(『億の近道』炎のファンドマネージャー)
プロフィール:炎のファンドマネージャー(炎)
小学生から証券会社に出入りし、株式投資に目覚める。大学入学資金を株式の利益で確保し、大学も証券論のゼミに入る。証券会社に入社後は一貫した調査畑で、アナリストとして活動。独立系の投資運用会社でのファンドマネージャーの経験も合わせ持つ。2002年同志社大学・証券アナリスト講座講師を務めたほか、株式漫画の監修や、ドラマ『風のガーデン』(脚本:倉本聰)の株式取引場面の監修を行う。
歴史と相場は繰り返す。バブルの萌芽は、いまもどこかに――
30年前のバブル時代を思い起こす
当時の日本の株式市場は、財テクブームに沸いていました。個人であれ企業であれ、余剰資金があれば設備投資ではなく財テク(つまりリスクの高い金融商品)に資金を回して、運用しようとする機運に多くの国民が有頂天となって盛り上がっていたのです。企業の株式持ち合いに銀行の株買い、特金・ファントラによる借り入れ金による株式運用などが、ごく当たり前のようにまかり通っていた時代です。
実は筆者も、特金やファンドトラストという商品の運用を行う証券会社系投資助言会社のファンドマネジャーとして従事していた時代がありました。本業そっちのけで株式運用で評判を高めた企業は数多く、筆者が知りうるだけでも、大手上場企業ではパナソニックやヤクルト、サンリオ、酉島などの企業が有価証券投資で名を馳せていました。
結果として日経平均は、1985年末の13,113.32円から1989年末の38,915.87円まで、4年間で3倍にも指数が上昇するに至ります。まさに買うから上がる、上がるから買うの理屈抜きの世界が演じられたのです。
ここには企業評価を無視したお金の暴走ともいうべき状態があったと言えます。株式投資に不動産投資、バブル経済を演出した様々なホットマネーの動きに国も安易に乗ってしまい、ついにはバブルがはじける事態となって、その後の日本経済はいまだにバブルの後遺症から抜け切れていない状況になっていると考えられます。
「ミニバブルの創出」とも言うべきマイナス金利政策導入にまで至った日銀の金融政策は2%の物価上昇を掲げて、小さなバブル現象を創出しようとしているように筆者は思えます。しかしながら笛吹けど踊らず、企業も国民も30年も前の時代をすっかり忘れていて、なかなかリスクを取ろうとしません。
極端から極端というのはこのことです。需要が盛り上がらないという経済情勢の中で、投資が手控えられてお金がバランスシートの中に滞留し続けているのです。
30年前は価値のない株式が需給の良さだけで舞い上がり、投機的な仕手軍団まで登場して操られる始末。投資顧問会社は株式に関心のない国民にとっては悪徳業者の代名詞のような存在で、株式投資=悪というイメージを植え付けてしまったのかも知れません。