投資歴54年の山崎和邦氏が思い出の投機家を振り返る本連載、今回は「和歌山のKさん」です。Kさんは山崎氏の薦めで、ある「マル政銘柄」を全力でカラ売りします。その結末は?
カラ売りで野村本店中を「肩で風切って歩いた」新人証券マン時代
私が野村証券に入社し本店営業部にいた5年間で、東証ダウ平均(当時)(※1)は1961(昭和36)年7月の高値1,829円から、証券不況と言われた1965(昭和40)年7月の安値1,020円まで、4割以上も下落した。
その春は、山一証券の第一次破綻、大阪の元気者だった大井証券の破綻などが相次いだ。佐藤栄作総理、田中角栄蔵相、宇佐美洵日銀総裁(※2)は決断迅速で、山一証券や大井証券に対する無制限の日銀特別融資(※3)を決定。山一破綻と同時発表の形をとって、市場の動揺を未然に防ごうとした。
だが官主導でつくられた日本共同証券や日本証券保有組合(※4)による株価買い支え効果は限定的で、「死守」ラインの1,200円を割れると、そこから1,020円までは早かった。
時の大蔵大臣・田中角栄氏が兜町の東京証券取引所に来て、証券マンを集めて演説したことがある。私たちはすぐ近所だったから義理で聞きに行かされたが、冒頭に開口一番「ヨロイ町のみなさん!」(兜町でなく)から始まって爆笑となった。
彼の帰った後、野村の市場部長が全員を帰さず「今の間違いは他言無用にせよ。町名を間違えるくらいは誰にでもある。しかも取引所のすぐ隣りにはヨロイ橋(※5)がある。彼は兜町の恩人だ。他言して笑い話にした者は厳罰に処するぞ」と緘口令を敷いた。官も民もその頃は今と違った(だが、その話は皆に伝わった)。
当時の野村本店営業部には、後年、副社長になる者、財界の大物になる者、他証券の社長になる者、等がひしめいていた。凄い奴、恐るべき奴、尊敬すべき奴、変な奴、怪しい奴、これらが熱気の中を闊歩していた。そいう人々とその後の人生何十年もお付き合いがあったのは望外の幸福だった。
ところで、その頃、さしもの猛者連も連日の下げ相場で商内できず青菜に塩だった。
その間隙をぬって私と3年下の後輩(後に中堅証券会社の社長・会長となる)だけが、カラ売りで大商内を敢行して気勢を上げ、肩で風切って本店中を歩いていた。本店営業部中の商内の半分以上を2人でこなした。
そのようなカラ売りは野村内でも異端中の異端で反逆児であったが、「数字が人格だ」の野村的風土をバックに我々2人は大きな顔をしていた。
まだ若かった私は、カラ売りの成功体験に味をしめていた。
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現在の日経平均株価。1949年12月に東証が「東証平均株価」を算出開始、東証ダウ平均などと呼称された。1975年から日本経済新聞社が「日経ダウ平均株価」の名称で算出を引き継ぎ、1980年には現在の「日経平均株価」に名称が変更された
※2 宇佐美洵日銀総裁
うさみまこと(1901-1983)三菱銀行頭取等を経て第21代日本銀行総裁。戦後初となる民間銀行出身の日銀総裁
※3 日銀特別融資
日銀特融。日銀が「最後の貸し手」として、破綻状態の金融機関に対し行う無担保・無制限の特別融資
※4 日本共同証券や日本証券保有組合
証券不況時に市場安定化・需給改善を目的として設立された株式買い上げ機関。当時、東証ダウ1,200円が防衛ラインとされた
※5 ヨロイ橋
東京証券取引所近く、日本橋川に架かる鎧橋。東京都中央区日本橋兜町と日本橋小網町を結ぶ
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