野村證券の年末株価予測(5/23時点で1万9000円)が一部で話題という。筆者は結論的には否定的なことを言うが、同時に野村の企業文化、風土も説明しておきたいと思う。野村は筆者の心の故郷であり、魂の道場となった永遠の企業だからである。(山崎和邦)
なお、円安への戻りは緩やかであると想定し、16年末の日経平均株価予測を従来の20,000円から19,000円に下方修正します。
出典:マーケットアウトルック日本市場 – 野村證券(2016年5月23日付)
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野村證券の年末株価予測(5/23時点で1万9000円)をどう見るか
「ここに足を踏む者、業界の一の一の一たるべし」
終戦直後、GHQの財閥解体政策の煽りを受けた野村銀行は財閥野村の名を剥奪され「大和銀行」にされたが、野村證券は「ウチは株屋だから世間の信用が低い。旧財閥の名を冠してくれ」とGHQに日参して存続した。
関西から日本橋のたもとに本店を移したとき、そのビルの基礎に「ここに足を踏む者、業界の一の一の一たるべし」と彫ったと伝えらえている。所は道路元標がある日本橋1-1-1だった。
その後、苦節60年、野村は経団連の末席にも入れなかった“旧株屋”から、田淵節也会長のとき経団連の副会長にまで伸し上がった。経常利益は日本一になった。それが絶頂だった。
総会屋利益供与事件
それでも1997年、総会屋に対する利益供与事件が明るみになったとき、野村の自浄作用は作動したかに見えた。不祥事と少しでも関わった可能性がある取締役17人を一挙に辞めさせ、アメリカしか知らない営業素人の氏家純一氏を事件後の社長に据えたのだ。
その理由は、彼なら間違いなくシロのはずだからだで、確かにそれは正解だった。だが彼は1期2年で辞するべきだったのだ。
それを後任にも似たような者を据えて3代十数年も続け、その途次、破綻したリーマン・ブラザーズの社員を年収4千万円で多数受け入れて米国化し、野村社内報の「社友」も半分以上が英文になってしまった。
これにより「去年(こぞ)今年(ことし)、貫く棒のようなもの」と社是となっていた口伝は消え去り、日本橋の本店の屋上に毎日翩翻と翻っていた国旗と社旗もなくなる。野村の「悪いところ」とともに、その強みや企業文化が消えたのだ。
対岸の駿河銀行の屋上には国旗と三本の旗が毎日ひらめいている。一本は国旗だが、おそらく一本は静岡県の県旗で、残る一本が社旗であろうか。これが企業のアイデンティティというものである。
旗はそれ自体武器ではないが、武器以上にそれを持つ者の戦意を高揚せしめる。野村はそれを忘れた。戦闘の基本を忘れていた。
野村の凋落と復活
“戦闘児”野村が戦闘を放棄した時期、野村は野村でなくなった。株価は史上最高値5990円から223円までに26分の1にまで落ちた。だが、野村の自浄作用は未だ生きていた。三代続いて弱体化した企業文化を一新すべく、生粋の営業出身である永井浩二を社長に据えたのだ。この時からまた本社屋上に二本の旗が立った。国旗と社旗だ。
筆者は時々、茅場町に用事があって行くが、その折には敢えて昭和通りの横断橋に立って見たものだ。このとき野村は再び“強い野村”に脱皮したのだ。世間も野村の復活を嗅ぎ取った。市場の反応は早く、野村株は223円から980円までするすると上がっていった。
野村の顧客預かり資産は109兆円、2位の大和が54兆円、いまだ業界1位の座を保持して現在に至っている。
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